名簿のコスト削減

画商とギャラリストはどう違うここで、画商とギャラリストの違いについて触れておきましょう。
画商は、読んで字のごとの「画(絵)」を売買する職業です。
十七世紀頃、ヨーロッパの都市で誕生しました。
美術品の買い手が、教会や貴族からブルジョワ層へと拡大することで、美術家と顧客を仲介する職業が生まれたのです。
ギャラリストは広い意味では画商に含まれますが、その名の由来である展示空間=ギャラリーを持ち、みずから企画展示をする点が、大きな違いです。
このようなタイプのギャラリストは、第二次世界大戦後、ニューヨークを中心とした現代アートの環境から生まれました。
そのため、現代アートの分野でとりわけ使われる呼び名です。
レオ・キヤステリが特に有名です。画商が美術の「近代」化の証人であるとすれば、ギャラリストは「現代」アートの伴走者と言えるかもしれません。
みずからのギャラリーで発掘したあるいは選んだアートを発表し、社会に価値を問い、その価値を高めていく仕掛人です。
画商がブローカーや営業マンに近く、コレクターの立場に沿って活動しているとすれば、ギャラリストはマネージメント業者やプロデューサーにより近-、アーティストの側に寄っていると言えるでしょう。
日本だけを見ても、画商といえば、それこそ風呂敷に絵を包んで行商する風呂敷画商、デパートを専門に卸すデパート画商、顧客を持たずに業者間で売買する画商など、形態や規模はさまざまです。
独自企画を手がける現代アートのギャラリーは、日本でも一九六〇年代後半には見られるようになりましたが、ギャラリストという呼称が広まったのは、ようや-一九九〇年代になってからではないでしょうか。
まだ二〇年も経っていないのです。
企業メセナ真っ盛りの美術館ビジネスフジテレビギャラリーを経て、みずから白石コンテンポラリーアートを立ち上げた誰も見たことのないものに価値を見出すギャラリストの仕事石正美さんも、西村さん同様、「売る」だけのギャラリスだけではありません。
ただ、西村さんとは少し違って、「アートシーンを育てる」ことに尽力するプロデューサーと言ってもいいでしょう。
白石さんの元で働いたのは一九九〇年代初頭。
時はバブル絶頂期です。
企業のメセナ活動が盛んでしたし、東京都現代美術館など、美術館の開館ラッシュでした。
白石さんはこうした世の中に働きかけ、企業メセナから美術館ビジネス、国際アートフェアの発足など、社会にアートの活動を定着させることでマーケットを育てることに力を注いだのです。
その一つが、一九八八年から九一年にかけて、表参道の交差点そばにあった東高現代美術館のディレクターとしての活動です。
僕は主に白石さんの指導のもと、日本のアーティストの展覧会のコ-ディネイトを担当しました。
兼高現代美術館は、不動産ディベロッパーの東高ハウスに、メセナ活動の一環として「現代美術の最先端の展覧会を開催する場所をつくりましょう」と白石さんが提案し、オープンした美術館です。
開館期間は、最初から二年半と限定されていました。
建物も仮設で、美術館としては規模が小さかったにもかかわらず、東高現代美術館の名は日本の現代アート史に確実に残されています。
というのも、白石さんが「現代美術の最先端」と強調した通り、当時まだ欧米とは時差があった日本で見られる現代アートを、ほぼオンタイムの水準にまで推し進めたからです。
ダニエル・ビユレン、ソル・ルウィッ-の個展を開催。
ジェフリー・ダイチによるキユレーション展では、ロバート・ゴーバー、フィリップ・ターフ、ケディ・ノーランド、クリストフアート・ウールの四人展など、まさに最先端の展示を実現しました。
それまで美術書や雑誌でしか情報を得られなかった海外の一流アーティストから、日本の現代アートの歴史を踏まえて、荒川修作、菅木志雄、遠藤利克まで幅広-、それでいて非常に卓越した展覧会が実現したのです。
こうしたイベント企画力が買われ、「日本でも国際的なアートフェアを開催したい」という日本の美術業界の念願を果たすべく、ディレクターとして抜擢されたのも白石さんでした。
白石さんの実行力は半端ではありません。
一九九二年の記念すべき第一回国際コンテンポラリーアートフェスティバルでは、日本のみならず、世界中からギャラリーが集まり、プレスからイベントまで、すべて白石さんの人脈を総動員して成功を収めました。
ギャラリストの仕事白石コンテンポラリーアートが運営するギャラリーが、谷中の銭湯を改造して一九九三年に開廊しました。
通常のギャラリー業務同様、展覧会をして作品を売り、作家のエージェント的な業務やその可能性を広げるアートマネージメントが主な仕事でした。
もう一つの大切な仕事は、美術館への作品の販売です。
主にセカンダリーの作品を取り扱っていましたが、美術館へのアプローチは、アートの普及やマーケットの底上げに非常に効果があります。
公立美術館がパーマネントコレクションすることで、収蔵された作品には、よりパブリックな価値付けがなされるからです。
僕も東京都現代美術館開館前に、掃除機をモチーフにしたジェフ・クーンズの作品や、クロード・パスカルの詩が書かれたイヴ・クラインの代表作を納めました。
ジェフ・クーンズは、アメリカの消費社会のイメージをキッチュに象徴化した作品で有名な一九八〇年代アートシーンのポップスターです。
特殊な青い顔料を使った作品で知られるイブ・クラインも、二〇世紀アートの功労者です。
本でしか眺めたことのないような作品をこの僕が扱うことができるなんて、と感激していたのもこの時期です。
若手アーティストの作品では商売にならない。白石さんの元で働いていた頃に、僕は村上隆さんや奈良美智さんをはじめ、中村政人さんや太郎千意戒さんといった同世代のアーティストと出会っています。
後に詳しく紹介しますが、彼らとの出会いが僕の独立のきっかけとなりました。
彼ら若手アーティストの展覧会を僕自身が企画して、スカイ・ザ・バスハウスで開催させてもらったのが、一九九〇年代初頭です。
村上さんにしろ奈良さんにしろ、ほとんど無名の状態で、ペインティング(絵画作品)が一点数十万円の時代です。
好きな若手アーティストの企画を手がけたのはいいものの、ここで大きな壁にぶちあたりました。
通常、現代アートの展覧会で作品が売れた場合、代金の半分がギャラリーの売上げとなります。
ところが、僕と同世代のアーティストの展覧会をすると、作品価格が安すぎて、完売したとしても、とうていギャラリーの運営費を賄えません。
赤字です。
「同世代のアーティストを手がけるためには、独立して自分でやるしかない」そう考えて、思い切って一九九六年に独立することにしました。
「小山登美夫ギャラリー」の誕生です。
誰も見たことのないものに価値を見出すギャラリストの仕事五×六メートルの展示室と、二×六メートルに満たないオフィス兼倉庫のみ。
家賃はわずか八万円。
それでも当時はその家賃を払うのがやっとでした。
場所は、隅田川にかかる永代橋近-の江東区佐賀町。
昭和初期に建てられた「食糧ビル」の一室を借-ました。
都内とはいっても地の利が悪く、でもすごく雰囲気のあるビルでした。
食糧ビルはやがて、知る人ぞ知る現代アートの名所になります。
そもそも僕のギャラリーは、佐谷周吾美術室を居抜きで譲ってもらったのです。

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